尊厳死と死後医療

尊厳死最高裁も延命認めず (03/25 09:09NHKニュース)

アメリカで15年間にわたって生命維持のための栄養補給装置を使って生きてきた女性の尊厳死を認めるかどうかを巡り、女性の夫と両親が争っていた裁判で、連邦最高裁判所は24日、女性の延命を求める両親の訴えを退けました。 <

この女性は生きて居たいかどうかという視点で裁判が行われています。
違う視点はないのでしょうか。なぜなら、彼女にその意思表示が正しくできないからです。
口からものを食べないことを昇天の希望と受け取ってよいかというと、食べられなくても注射をうって生き延びたいと訴える病状の人もあるかもしれません。

この女性に生きていて欲しいと願っている人が2人はいます。両親です。
この女性に死んでもらいたいと願っている人が2人はいます。夫ととある院長です。

さて、もし飼い犬が植物状態になって看取りの段階にいたっているとき、飼い主が介抱しているのを周囲の人は無駄だから手を抜いて見放しなさいというのでしょうか。最後の別れを充分に味わいたい人を好きにさせるのではないでしょうか。この犬の心理など問題じゃないのではないでしょうか。

話はもどって、この女性は両親のために生きています。生きる意欲があるとすれば、両親の生きていて欲しいという願いに応えての親孝行ではないかと思います。生かしたい人と、その期待に応えている人という組み合わせがあるのに、その死を望むのは殺人と解釈できます。この夫は離婚すべきでしょう。
宗教のために離婚できない社会体制もあるので、ここで離婚を選択肢に加えることができないとするなら、その宗教は間違ってはいませんか。

また話は変わって、「岸壁の母」、必ず戻ってきてくれると岸壁に立ち続けた母に会いには戻らなかったけど、兵士は生きていたそうですね。きっと生きている、きっと助かると家族が願うとき、生き続けるかもしれない、生命維持装置をはずしても生きているかもしれない、親の願いが生命維持時装置を通り越した信念になっていれば。だからといって、生命維持装置をはずすことに医師が罪悪感をもたないとすれば、これはちょっと問題ですね。

アメリカの判例が日本の裁判の判例にならないことを希望します。人の命は愛情が切れたところで消えるものなのかもしれません。物理的に維持できる範囲なら。だったら、生かしておいて欲しいという人がいなくなるまでは生命維持装置をはずすのは犯罪行為といえないでしょうか。